cineぞこない日記

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20160105

ふと目にした中川信夫という文字に、身を切るような痛みをおぼえる。中川信夫渋谷実小沼勝NFC東映時代劇。私の凡庸な日常に、いったいどれほどの仕事が、どんな義務があったというのか。駆けつけられずに、いま銀幕には、いままさにと、祈るように堪えた痛みの記憶など、この期の痛みに及んでは、いかほどのものにも思えない。無反省に綴られる総括など、この身体の痛みが許してはくれない。

20151231

※導入1〜4は任意で選択のこと。

 

■導入1

 

例年どの立場でと思いながら、

覗き魔の役割に甘んじてきていたのだが、

それでも露出狂の途方もない楽天性への憧れもあり、

むしろ愚直さへの加担によって少しでも世界の輪郭が歪むのであれば、

美的でなく政治的な身振りとして、

すすんで悪い冗談に興じ曖昧な笑みを浮かべてみせよう。

 

今年の10本を選んだ。順不同。

新作、かつ一般公開作のみ。

今年日本で初めて一般公開されたものは、

製作年度にかかわらず新作とみなす。

監督名は排した。

なお、対象とした新作は50本程度。

他の記録については膨大のため、記録はあるが数えていない。

 

 

■導入2

 

今年の10本を選出したよ!

 

 

■導入3

 

今年の10本を選出しました。

例年にもまして、今年はワクワクできる一年でしたね。

来年も、往年の巨匠の新作・未公開作、

気鋭の若手監督の野心作が続々と公開されることを期待しつつ…。

 

■導入4

 

(無言)

 

 

 

ーーー以上導入ーーー

ーーー以下本文ーーー

 

・神々のたそがれ

・岸辺の旅

・光のノスタルジア/真珠のボタン

・アメリカン・スナイパー

・ラヴ&マーシー

・アンジェリカの微笑み

・ブラックハット

・チャッピー

・さらば愛の言葉よ

マッドマックス 怒りのデスロード

 

未見

・ハッピーアワー

・マイ・ファニー・レディ

 

 

 

 

 

 

20151228

論文が一区切りついたので、

『FOUJITA』をみにいく。

マリー・クレメールをもう少しみていたかった。

中谷美紀が凄い。そりゃ化かされますね。

ヴィスタ、デジタルに最後まであまりノレない。

 

時間があったので『ひつじ村の兄弟』もみる。

背を向けて指さすショットは良い。

20151227

万田さんの新作『シンクロナイザー』。

論文執筆で全然新作を観られていないが、

これを楽しみに今週はカンヅメになった。

出鱈目で、荒唐無稽でありつつ何食わぬ顔を装う、

それが知的な遊戯になってしまうという楽天性を何度でも讃えよう。

万田さんの口からは『ラビッド』と『ザ・フライ』、

思わずイエスその通り。

20151223

論文執筆の合間にフラー自伝、シネ砦を読んでいる。

廣瀬純氏の黒沢清論おもしろく読む。

バディウの構図を逆転させる黒沢清

ただ、忙しくて二度目を観に行けない『岸辺の旅』を思うにつけ、

黒沢さんは口で言うほどモンタージュを排除していない。

次のカットに何が映っているかわからない、

現れるかもしれないし消えるかもしれない、

そのかぎりにおいて生者も死者も等しく、

そのことを映された身体たちはだれもがそのことを諒解している。

黒沢さんの核になっている怪奇映画、あるいはジャンル映画としてのホラー、

たとえば『エルム街の悪夢』の抱えていた問題をここに見る思い。

映された身体たちが身を任せる、

映写機の作動という原理的な条件の抱えている問題がそこにある。

そこに、映された身体たちの途方もない悲しみと、

限りない自由がある。

ショットはモンタージュを排除するだろうか。

私はしないと思う。黒沢さんは意外とバザン主義のようでもあり、

実はそうでもない。

 

 

 

20151222

『フォースの覚醒』を観てきた。

予想通りちゃんとショットを決める意志のあるSW。

筒を手に持つだけであれだけの情動が発生するシリーズであることが確認された。

手に持つ、引く、触る、手形を遺す、ジャケットを羽織る。

あと顔が良い。

20151217

睡眠との不毛な格闘をやめて、

夜中に論文を書いて朝ねむる生活に。

 

オリヴェイラを満喫。

農夫たちがふとカメラを覗いて不器用に立ち去るショット、

あ、と切り返すと雲間に太陽が覗いているショット、

館の入り口に飾ってある鶏のようなエンブレムのショット、

ああいうショットの静けさに私は弱い。

静けさ。音の大胆さに驚かされるたびに、

むしろ静けさに胸を打たれる思いがする。

 

 

20151214

死ではなく移行。それは悲しむべきことですらない。悲しむという行為はあまりに人間的すぎるからだ。だからそこに血は流れているのか、ということが問題なのではない。ここに明らかに流れている血はどのようなものなのか、ということが問題となる。
 
人間から解放され、流れへと至ること。人間から解放されるにはどうすればいいのか。それは死者から解放されるには、という問いと同じだろう。二十世紀から、近代から解放されるには。映画が負っているのもこの問いだろう。その意味ではインターネットはさして重要ではない。ここで問題になっているのはもっと大きな問題であって、インターネットは単にそれを表現する手段にすぎない。問題は人間以後をどのように思考するかだ。だがそこでは身体とはいったい何なのか?われわれの身体はあまりに人間的なのか?
 
左の画面上に現れる分身たちと、右にいる熊川ふみとの会話は初めあたかも彼らが同じ位相にいるかのようであった。だから彼らははじめ会話をしているようにみえる。だが熊川の分身があらわれ、ーーーそれはおそらく行方不明になった母の娘なのだがーーー、そこにおいてはじめて会話はすれ違いを見せる。「どこに?」とそこにいる熊川は繰り返す。全く同じ調子で。冷たい、身体も凍り付くような調子で?機械のような調子で?熊川は「どこに?」と繰りかえし唱える。
 
だがそこにいる熊川は、いったい何なのだろうか。それは熊川が何を演じているのか=なんの分身であるのかということではない。問題はその身体の存在論的な位相である。画面上の人々はすでに過ぎ去ってしまった、いや死ということすら出来ない、もはや現実とは別の位相にある絶対的〈分身〉(丹生谷貴志)である。それと異なる位相にいて、まさにここにいるはずの熊川「こそが」、永遠に死ぬことのなく漂い続ける分身、情報として消え去ることも出来ない分身を演じている。この、一見逆転にもおもえる事態を、まったく理解することのできないままに、ただどうしようもなく、声を殺して私は泣いた。
 
熊川はいったいあのとき何だったのか。情報としての身体を演じること。まぎれもなくそこに血が通ったものとしてあるはずの身体が、血の通っていない身体の分身としてあることは、決して血の通っていない身体を人間化することではないだろう。だから、熊川の冷たい声の調子は、それが「人間が発しているという理由において」あくまで温かいのではないか、という問いは斥けられる。冷たい/温かいということはもはやどうでもいいのである。その二分法はあまりに人間的であるからだ。それがその調子である、ということが途方もない自由であるはずだ。
 
そこにあるのはあくまで身振りにほかならない。だが身振りを人間に回収してはならない。身振りはあくまで身体=物体の位相にあるのだ。だから、人間には血が通っている、ということがここで問題なのではない。物体にも血は通っているのだ。
 
だから、問うべきは、熊川にかぎらず、そこにある身体たちの動きがデジタルであるかどうかという問いではない。デジタルの果てにほの見える有機性などはここではいささかも問題ではない。ここで問題にあるのは、その動きをしている身体たちが、あくまでその動きにおいて肯定されるという途方もない自由であるはずだ。その身体たちは身体=物体の位相でただ肯定されるのである。ここにたしかに流れている血が、電子信号として、空気として、情報として、つまり「流れ」として肯定されること。血を流れへと解放すること、あまりに人間的なものから解放すること。
 
演劇は絶対的〈分身〉には、「本質的に」到達できない。仮に俳優が心不全で倒れてしまえば演劇は中断してしまうだろう。そこにある身体は絶対的〈分身〉ではなく、絶対的〈分身〉は画面のなかの身体たちである。だがそこにある身体たちはもっと別の位相を開示していた。演劇だけに可能な何か。物体としての身体。身振りを人間から解放し物体へと開くこと。血を人間から解放し流れへと開くこと。私に流れているのは電気信号と同じ、空気と同じ、情報と同じ、血であると。それはとてつもない自由であろう。人間からの。早晩消え去るにちがいない人間からの圧倒的な自由であろう。

20151212

今日にみるかもしれないと思って

先日は『驟雨』と『河内山宗俊』にしたのだが、

どうも紀子ではないものを観たい気分。

 

ぴあで観られなかった二本を観て、

フラー自伝を入手。論文の息抜きに。

予想の倍くらい分厚い。

蚤の市で仏語の易しいリーダーを数冊買う。

二年前から初級文法で止まっている…。

フィリップ・ガレル『ジェラシー』


1.
口元から頬の右側にかけて皮膚が震えている。

2.
震えは寒さのせいにすることが出来るので、それぞれ脱いで与えることで三者は連帯する。マフラー、コート、帽子。コートを壁に掛けるとき、宛先のない贈与は何かの終わりを告げる。あるいはベッドの上で脱がされないブーツ。

3.
苛立つべきなのは震えることのない皮膚に対してであって、狙うべきなのは心臓ではない。だから男は死ななかった。震えるべきものは心臓ではなく、皮膚なのだから。

4.
寒さのせいでなければ、もはや皮膚を脱いで与えることはない。皮膚は破られ、噛み砕かれる。そして新たな連帯が編成される。

5.
震えが収まったわけではない。

クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』


 扉が突然ひらく。例えば『ガントレット』を、一言でいうなら「物が壊れる」映画だといってもいいように、ひとまず『ジャージー・ボーイズ』は、「扉がひらく」映画だと言ってもいいかもしれない。『ジャージー・ボーイズ』の冒頭で、あたかも「これは扉がひらく映画である」とでも言うかのように、語り手として現れたトミーは床屋の扉を勢いよく開け、そのせいでジャッキーはマフィアの親玉の髭剃りをしくじってしまうのだが、これはちょうど『ガントレット』でイーストウッドが、あたかも「これは物が壊れる映画である」とでも言うように、冒頭で何気なくウイスキーの瓶を割ってみせたのに似ている。『ガントレット』では、物が壊れるたびにイーストウッドとソンドラ・ロックの愛が深まっていくのだが、『ジャージー・ボーイズ』では、扉がひらくたびにバンドが成功していく。

 ライブ会場として訪れたボーリング場の扉がひらく。バスの中で『シェリー』を書き上げたボブが突然扉をひらいて家に飛び込んでくる。レコード会社が集まっているビルの扉をひらく。それぞれの部屋の扉を叩いてまわるが、快く開いて受け入れてくれる会社はない、そこに同郷のちょっとフェミニンな雰囲気の男性プロデューサーが現れ、彼に連れられてパーティーの扉がひらく。扉がひらくたびに物語はテンポよく進行し、バンドは順調に成功してゆく。語り手はトミー、ボブ、ニックと引き継がれ、バンドはこのまま何事もなく成功の道を歩んでゆくような気がしてくる。

 だが映画は後半、それまでの軽快なテンポを喪失してしまう。そこでわれわれはふたつの事実に直面することになる。ひとつめは、扉の消失であり、ふたつめは語りの変質、あるいはフランキーの眼である。

 あれほど数多く画面上に現れ、成功を加速させる装置のように思えた扉が、いつのまにか開かれることはなくなり、ましてや画面に現れることさえ殆どなくなってしまう。この変質が起きた決定的な地点がある。それはフランキーが帰宅する場面である。ボブの運転する車に乗ってライブから戻ってきたフランキーが、大きなバッグを持って自宅の扉に近づいていく。扉はなんの躊躇もなくひらかれ、それまでほとんど顔を見せることがなかった彼の家族たちが、玄関に出迎えるのを見られるのだろうかと、一瞬期待がよぎる。だがそう思うよりも早く、カットはすでに切り替わり、家の中で彼と妻との口論が始まっている。この唐突な口論の開始は、われわれに動揺をおぼえさせるのに充分なのだが、その動揺は、口論の激しさのために起こるのではない。われわれの心が真に乱れるのは、フランキーが扉をひらかなかったという事実のためである。この恐るべき変質は、フランキーが家をあとにするシーンで決定的になる。フランキーは、両手に荷物を持ち、娘の開けてくれた扉を、重苦しくゆっくりと出ていくのである。出て行ったフランキーのあとを、娘がじっと見守っている。扉をひらくという行為の遺した傷跡が残酷に露呈したようなこの瞬間を境に、これまで颯爽とひらかれくぐり抜けられてきた扉は、ひとまず画面上に現れなくなってしまう。

 バンドは、それまでの軽やかな歩みを止め、内側からすこしずつ壊れていく。トミーがこれまでに作った莫大な借金が明るみに出る。ニックは、鬱積した怒りを爆発させていきなりバンドを辞めてしまう。ボブはなぜか髭を生やすようになり、これまでの好青年はどこへ行ったのか、何となく胡散臭い風貌に変わってしまう。扉が開かれることのない閉ざされた部屋で、フランキーはティーポットを割り、トミーは弁護士の机に椅子をたたきつける。音でその存在は示されはしても、扉はもはや積極的に画面内に映されることはない。扉をひらくたびに生んできた傷、そのたびに見ないようにしてきたもの、決して見たくはなかったものが、ここで一気に露呈することになる。(だが、扉を開くという行為が思わぬ傷口を開かせることは、冒頭の床屋の場面で、すでに明らかに視覚的に予示されていたのではなかったか)。扉が開かれることのない世界で、空気は停滞し、バンドの活動は澱んだものとなる。

 この変質した世界でわれわれが気づくのは、冒頭からメンバーによってリレーされてきた、物語内での語り手がいなくなったように見えることである。この映画の語り(narrative)は、主人公たちの語りに寄り添うかたちで進行してきたのだが、トミー、ボブ、ニックと受け継がれてきたこの語りが、この変質によってぴったりと止まってしまったように見える。実際、次にその語りを受け継ぐことになるはずの人物は、得意気にカメラに向かって喋り始めはしないからだ。それも、単にカメラに向かって喋らないというだけではない。この人物は、その語りを自ら回避しているように見える。唯一、彼がカメラに向かって喋り始めたように見えるカットで、カメラが彼の動きに合わせて、それが壁を横切ることでセットのものとわかる家の中を、移動撮影で追ってゆくとき、はじめはカメラに向かって語られていると思われた彼の語りは、じつは彼の愛人の雑誌記者に向けられたものであることが判明するからだ。娘の歌手デビューに関してあれこれと喋る彼に、女は「私に愚痴を言わないで」と反発する。彼はカメラに向かう語りの宛先を登場人物に差し向けることで、これまで担われてきた語りの役割を回避してしまうのである。

 では、彼は語らずに何をするのか。彼は、「見る」のである。トミー、待ってくれ、他にも借金があるのか?と静かに尋ねるとき。また、「俺が憎いだろう」とトミーが去り際に言うとき。彼はなにも言わず、ただじっと見る。家出をしていた娘とダイナーで会ったとき、彼は話しながら、娘のほうをじっと見つめている。トミーに女の口説き方を教わっていたときの彼の微笑ましい幼さ、慌ただしい挙動不審を思い出すがよい。彼はいまや視線を漂わせることはなく、じっと目前の物事を見据える男になっているのである。

 しばらくわれわれの瞳を動揺させていた扉の不在を、こともなげに打ち破りながら娘がダイナーに入り込んでくるとき、この閉塞した状況に希望がもたらされるのではないかと、一瞬わずかな期待がよぎる。だがその後に露呈するのは、一本の電話によって知らされる、あまりに唐突な、残酷な結果でしかなかった。ベンチに腰掛けた父親の姿を、カメラはクレーン撮影で見守るのだが、うろたえていたわれわれの瞳は、そのときある眼と遭遇することになる。まるで答えのない問いに、問うことで答えようとするかのようにはっきりとカメラを見据えたその眼は、語るという行為の代わりに、「見る」ことを決然と選びとったと言っているかのようだ。彼は語ることをやめ、見ることを選択した。それは倫理的な選択である。では、この眼は一体なにを「見て」いるのか。

 ついに扉を勢いよくひらいて店に入ってきたボブが、彼にある譜面を渡す。そこにはおそらく、この眼が「見て」いるものがちゃんと書かれていることだろう。それは言ってみれば、「真実であるにはあまりに素敵すぎる」("you're just too good to be true")ものである。その"you"こそがこの眼が「見て」いるものであるはずだが、その"you"とは誰か/何かという問いなど、決して立ててはならない。なぜなら、そんな問いを立てる間もなく事態は生じている。今まさに、"I love you, babe…"という情動の爆発が世界を震わせ、スクリーンと響き合う無数の瞳たちは、"I love you.."と呟き返すこともできずに、ただただ息を詰まらせながら、ひとときもその瞼の上下運動によって震えが遮られることのないように、情動の洪水でもってそれ自身を、とめどなく洗い清めてゆくではないか。そしてその情動の到達点で、身も張り裂けんばかりに"let me love you…"という言葉をつぶやくとき、そこにあるのは"you"でも"me"でも"I"でもなく、"let me love you…"という言葉の、狂おしいまでの反芻ばかりではないのか。

 "please let me know that it's real"という言葉のうちに、この眼が覚悟を据えて見つめているものとの間の連続と断絶が、姿を現している。すなわち、これが"real"に他ならないという情動のうちに連続が、そしてこの祈るという行為のうちに断絶が。そしてこの連続と断絶とを、他ならぬ無数の瞳たちも現に見ていることになる。だがそれは決して、露骨に白々しいかたちで「語られ」たりはしない。現にわれわれはすでに、光が投影される瞬間からそれが消え去る瞬間まで、その覚悟を「見て」しまっているからだ。"let me love you…"という言葉を反芻しているわれわれは、そのことをすでに知っているはずだ。

 「ロックの殿堂」入りを果たした四人は、それぞれ老けメイクを施されながら、カメラに向かってそれぞれ胸の内を語るのだが、トミーはラスベガスでのことを、ニックは自分の脱退のことを、ボブは妻子との生活のことをそれぞれ喋る。つまり三人とも自分について喋っている。だがもうひとりの男は、昔、街頭で四人でハーモニーを作ったときのことを語る。そこで彼は、「何もかも消えて、musicだけがあった」と語るのである。これが、「見る」ことを決然と選びとった男の言葉であり、そしてこの台詞が、連続と断絶とを見据える、いまなお最も果敢な映画作家のとった身振りであったことを、決して乾くことのない無数の瞳たちは、いつまでも忘れずに記憶しているはずだ。