cineぞこない日記

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20151223

論文執筆の合間にフラー自伝、シネ砦を読んでいる。

廣瀬純氏の黒沢清論おもしろく読む。

バディウの構図を逆転させる黒沢清

ただ、忙しくて二度目を観に行けない『岸辺の旅』を思うにつけ、

黒沢さんは口で言うほどモンタージュを排除していない。

次のカットに何が映っているかわからない、

現れるかもしれないし消えるかもしれない、

そのかぎりにおいて生者も死者も等しく、

そのことを映された身体たちはだれもがそのことを諒解している。

黒沢さんの核になっている怪奇映画、あるいはジャンル映画としてのホラー、

たとえば『エルム街の悪夢』の抱えていた問題をここに見る思い。

映された身体たちが身を任せる、

映写機の作動という原理的な条件の抱えている問題がそこにある。

そこに、映された身体たちの途方もない悲しみと、

限りない自由がある。

ショットはモンタージュを排除するだろうか。

私はしないと思う。黒沢さんは意外とバザン主義のようでもあり、

実はそうでもない。