cineぞこない日記

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20160426

 タルコフスキーはフィルム以外の素材では決して観ないことにしているという、もういい加減いい年齢になっているのにいつまでも子供じみた理由から何年も遠ざかっていたのではあるが、あたかもそんな主義などなかったかのようにさりげなさを装って机に積まれることになった『ノスタルジア』のブルーレイを、案の定一年近くも放ったらかしにしたのち、どうやらスクリーンにかけられるというので重い腰を上げてようやく封を解いたのだった。

 

 人を無用な饒舌へと誘ってやまない幾多の危うい誘惑的記号に溢れているこの映画を、端的に「ずるい」という形容詞に収斂させてみよう。するとたちまち、幾多の誘惑的記号は映画にとって実にどうでもよい些末な事柄となって消えていく。実際、ほとんど内容というほどの内容もない。誤解を恐れず、たいした映画ではないとすら言ってみたくもなる。映画にとっては、タルコフスキーよりもトビー・フーパーのほうがよほど誠実であり、真摯であると確実に言えるだろう。

 

 にもかかわらず、自分の感受性の単純さに驚愕している間もなく、気がつくとふいに視界が曇り、事態のあからさまな破廉恥さに対して平静を装うこともできない屈辱に耐えねばならないのは何故なのだろう。これは端的に「ずるい」からでなくて何だというのか。そしてこのずるさとともに、タルコフスキーは確実に胡散臭さを獲得している。そう、ついにタルコフスキーは胡散臭さを獲得したのだ。ブルーレイという素材のもつ白っちゃけた明るさとともに。霧が、寺院の壁が、そしてエウゲーニャの肌のテクスチャーまでもが、ついに胡散臭さを獲得し、あからさまにスクリーンにその姿を見せる。

 

 ブルーレイによって、タルコフスキーはついに胡散臭さを獲得し、「ずるい」という形容詞を帯びる固有名詞となりえたのだ。この事態を祝福しようではないか。ここにおいてはじめて、永遠に閉じ込められていた記憶の亡霊たちは、図らずも解放されたのではなかったか。ドメニコの死すらも、ついに胡散臭さを獲得した。だから彼は何度でも心おきなく死ねるだろう。あなたはようやく、生きても死んでもいない者となった。祝杯をあげよ。蝋燭は置かれていた。そう、蝋燭はすでに置かれていたのだ。まったくもって、「ずるい」というほかない。