cineぞこない日記

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20160408

 映画はジャック・ドワイヨンとともに退屈さを獲得したと書くとき、ここで言われているのは単なる肯定であって、否定ではない。元来退屈以外の何物でもなかった映画は、いつしか面白さという価値を内在的にもつものとして語られ始めた。人々は、白い映画や赤い映画、明るい映画や暗い映画(物語が幸福か否かということではない)を語るのと同じように、退屈な映画や面白い映画について語り始めたのだ。だが、白さや赤さは、映画が内在的に持つ要素によって策定されうるのに対して、退屈さや面白さは、映画が内在的に持つ要素によって策定されるものではない。
 退屈さや面白さは、きわめて曖昧な言説の領域にのみ、あやうくその輪郭を保っているのである。それがあたかも映画に内在する要素によって策定されるものとして語られるとき、退屈さと面白さは、同程度の罪でもって映画を殺すだろう。もし、映画を暗殺から擁護したければ、退屈さや面白さが、言説の領域にしか見いだせないということを、果敢にも示して見せる必要がある。ドワイヨンの実践は、退屈さは言説の領域における神話にすぎないということを、果敢な退屈さによって徹底的に示して見せる。だからこそ、ドワイヨンの映画は、誤解を恐れず言うなら、ほとんど面白さと紙一重の次元において、誇り高き退屈さを獲得しているのである。
 その誇り高き退屈さは、退屈さ/面白さというありふれた二項対立を突き崩し、退屈さと面白さの絶えず揺れ動く変容という次元をひらく。それによってドワイヨンは、驚くべきことだが、白い映画、赤い映画などというものこそ、存在しないのだということ————白さ、赤さとは映画が内在的に持つ要素によって策定されるものなどではいささかもなく、じつはそれこそが言説の領域の神話であるということ————を示してしまうのである。いまや、映画は、退屈でもあり面白くもある、単なる肯定をひたすらに生産し続ける、作動した機械に立ち戻るのである。