cineぞこない日記

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クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』


 扉が突然ひらく。例えば『ガントレット』を、一言でいうなら「物が壊れる」映画だといってもいいように、ひとまず『ジャージー・ボーイズ』は、「扉がひらく」映画だと言ってもいいかもしれない。『ジャージー・ボーイズ』の冒頭で、あたかも「これは扉がひらく映画である」とでも言うかのように、語り手として現れたトミーは床屋の扉を勢いよく開け、そのせいでジャッキーはマフィアの親玉の髭剃りをしくじってしまうのだが、これはちょうど『ガントレット』でイーストウッドが、あたかも「これは物が壊れる映画である」とでも言うように、冒頭で何気なくウイスキーの瓶を割ってみせたのに似ている。『ガントレット』では、物が壊れるたびにイーストウッドとソンドラ・ロックの愛が深まっていくのだが、『ジャージー・ボーイズ』では、扉がひらくたびにバンドが成功していく。

 ライブ会場として訪れたボーリング場の扉がひらく。バスの中で『シェリー』を書き上げたボブが突然扉をひらいて家に飛び込んでくる。レコード会社が集まっているビルの扉をひらく。それぞれの部屋の扉を叩いてまわるが、快く開いて受け入れてくれる会社はない、そこに同郷のちょっとフェミニンな雰囲気の男性プロデューサーが現れ、彼に連れられてパーティーの扉がひらく。扉がひらくたびに物語はテンポよく進行し、バンドは順調に成功してゆく。語り手はトミー、ボブ、ニックと引き継がれ、バンドはこのまま何事もなく成功の道を歩んでゆくような気がしてくる。

 だが映画は後半、それまでの軽快なテンポを喪失してしまう。そこでわれわれはふたつの事実に直面することになる。ひとつめは、扉の消失であり、ふたつめは語りの変質、あるいはフランキーの眼である。

 あれほど数多く画面上に現れ、成功を加速させる装置のように思えた扉が、いつのまにか開かれることはなくなり、ましてや画面に現れることさえ殆どなくなってしまう。この変質が起きた決定的な地点がある。それはフランキーが帰宅する場面である。ボブの運転する車に乗ってライブから戻ってきたフランキーが、大きなバッグを持って自宅の扉に近づいていく。扉はなんの躊躇もなくひらかれ、それまでほとんど顔を見せることがなかった彼の家族たちが、玄関に出迎えるのを見られるのだろうかと、一瞬期待がよぎる。だがそう思うよりも早く、カットはすでに切り替わり、家の中で彼と妻との口論が始まっている。この唐突な口論の開始は、われわれに動揺をおぼえさせるのに充分なのだが、その動揺は、口論の激しさのために起こるのではない。われわれの心が真に乱れるのは、フランキーが扉をひらかなかったという事実のためである。この恐るべき変質は、フランキーが家をあとにするシーンで決定的になる。フランキーは、両手に荷物を持ち、娘の開けてくれた扉を、重苦しくゆっくりと出ていくのである。出て行ったフランキーのあとを、娘がじっと見守っている。扉をひらくという行為の遺した傷跡が残酷に露呈したようなこの瞬間を境に、これまで颯爽とひらかれくぐり抜けられてきた扉は、ひとまず画面上に現れなくなってしまう。

 バンドは、それまでの軽やかな歩みを止め、内側からすこしずつ壊れていく。トミーがこれまでに作った莫大な借金が明るみに出る。ニックは、鬱積した怒りを爆発させていきなりバンドを辞めてしまう。ボブはなぜか髭を生やすようになり、これまでの好青年はどこへ行ったのか、何となく胡散臭い風貌に変わってしまう。扉が開かれることのない閉ざされた部屋で、フランキーはティーポットを割り、トミーは弁護士の机に椅子をたたきつける。音でその存在は示されはしても、扉はもはや積極的に画面内に映されることはない。扉をひらくたびに生んできた傷、そのたびに見ないようにしてきたもの、決して見たくはなかったものが、ここで一気に露呈することになる。(だが、扉を開くという行為が思わぬ傷口を開かせることは、冒頭の床屋の場面で、すでに明らかに視覚的に予示されていたのではなかったか)。扉が開かれることのない世界で、空気は停滞し、バンドの活動は澱んだものとなる。

 この変質した世界でわれわれが気づくのは、冒頭からメンバーによってリレーされてきた、物語内での語り手がいなくなったように見えることである。この映画の語り(narrative)は、主人公たちの語りに寄り添うかたちで進行してきたのだが、トミー、ボブ、ニックと受け継がれてきたこの語りが、この変質によってぴったりと止まってしまったように見える。実際、次にその語りを受け継ぐことになるはずの人物は、得意気にカメラに向かって喋り始めはしないからだ。それも、単にカメラに向かって喋らないというだけではない。この人物は、その語りを自ら回避しているように見える。唯一、彼がカメラに向かって喋り始めたように見えるカットで、カメラが彼の動きに合わせて、それが壁を横切ることでセットのものとわかる家の中を、移動撮影で追ってゆくとき、はじめはカメラに向かって語られていると思われた彼の語りは、じつは彼の愛人の雑誌記者に向けられたものであることが判明するからだ。娘の歌手デビューに関してあれこれと喋る彼に、女は「私に愚痴を言わないで」と反発する。彼はカメラに向かう語りの宛先を登場人物に差し向けることで、これまで担われてきた語りの役割を回避してしまうのである。

 では、彼は語らずに何をするのか。彼は、「見る」のである。トミー、待ってくれ、他にも借金があるのか?と静かに尋ねるとき。また、「俺が憎いだろう」とトミーが去り際に言うとき。彼はなにも言わず、ただじっと見る。家出をしていた娘とダイナーで会ったとき、彼は話しながら、娘のほうをじっと見つめている。トミーに女の口説き方を教わっていたときの彼の微笑ましい幼さ、慌ただしい挙動不審を思い出すがよい。彼はいまや視線を漂わせることはなく、じっと目前の物事を見据える男になっているのである。

 しばらくわれわれの瞳を動揺させていた扉の不在を、こともなげに打ち破りながら娘がダイナーに入り込んでくるとき、この閉塞した状況に希望がもたらされるのではないかと、一瞬わずかな期待がよぎる。だがその後に露呈するのは、一本の電話によって知らされる、あまりに唐突な、残酷な結果でしかなかった。ベンチに腰掛けた父親の姿を、カメラはクレーン撮影で見守るのだが、うろたえていたわれわれの瞳は、そのときある眼と遭遇することになる。まるで答えのない問いに、問うことで答えようとするかのようにはっきりとカメラを見据えたその眼は、語るという行為の代わりに、「見る」ことを決然と選びとったと言っているかのようだ。彼は語ることをやめ、見ることを選択した。それは倫理的な選択である。では、この眼は一体なにを「見て」いるのか。

 ついに扉を勢いよくひらいて店に入ってきたボブが、彼にある譜面を渡す。そこにはおそらく、この眼が「見て」いるものがちゃんと書かれていることだろう。それは言ってみれば、「真実であるにはあまりに素敵すぎる」("you're just too good to be true")ものである。その"you"こそがこの眼が「見て」いるものであるはずだが、その"you"とは誰か/何かという問いなど、決して立ててはならない。なぜなら、そんな問いを立てる間もなく事態は生じている。今まさに、"I love you, babe…"という情動の爆発が世界を震わせ、スクリーンと響き合う無数の瞳たちは、"I love you.."と呟き返すこともできずに、ただただ息を詰まらせながら、ひとときもその瞼の上下運動によって震えが遮られることのないように、情動の洪水でもってそれ自身を、とめどなく洗い清めてゆくではないか。そしてその情動の到達点で、身も張り裂けんばかりに"let me love you…"という言葉をつぶやくとき、そこにあるのは"you"でも"me"でも"I"でもなく、"let me love you…"という言葉の、狂おしいまでの反芻ばかりではないのか。

 "please let me know that it's real"という言葉のうちに、この眼が覚悟を据えて見つめているものとの間の連続と断絶が、姿を現している。すなわち、これが"real"に他ならないという情動のうちに連続が、そしてこの祈るという行為のうちに断絶が。そしてこの連続と断絶とを、他ならぬ無数の瞳たちも現に見ていることになる。だがそれは決して、露骨に白々しいかたちで「語られ」たりはしない。現にわれわれはすでに、光が投影される瞬間からそれが消え去る瞬間まで、その覚悟を「見て」しまっているからだ。"let me love you…"という言葉を反芻しているわれわれは、そのことをすでに知っているはずだ。

 「ロックの殿堂」入りを果たした四人は、それぞれ老けメイクを施されながら、カメラに向かってそれぞれ胸の内を語るのだが、トミーはラスベガスでのことを、ニックは自分の脱退のことを、ボブは妻子との生活のことをそれぞれ喋る。つまり三人とも自分について喋っている。だがもうひとりの男は、昔、街頭で四人でハーモニーを作ったときのことを語る。そこで彼は、「何もかも消えて、musicだけがあった」と語るのである。これが、「見る」ことを決然と選びとった男の言葉であり、そしてこの台詞が、連続と断絶とを見据える、いまなお最も果敢な映画作家のとった身振りであったことを、決して乾くことのない無数の瞳たちは、いつまでも忘れずに記憶しているはずだ。