cineぞこない日記

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20151214

死ではなく移行。それは悲しむべきことですらない。悲しむという行為はあまりに人間的すぎるからだ。だからそこに血は流れているのか、ということが問題なのではない。ここに明らかに流れている血はどのようなものなのか、ということが問題となる。
 
人間から解放され、流れへと至ること。人間から解放されるにはどうすればいいのか。それは死者から解放されるには、という問いと同じだろう。二十世紀から、近代から解放されるには。映画が負っているのもこの問いだろう。その意味ではインターネットはさして重要ではない。ここで問題になっているのはもっと大きな問題であって、インターネットは単にそれを表現する手段にすぎない。問題は人間以後をどのように思考するかだ。だがそこでは身体とはいったい何なのか?われわれの身体はあまりに人間的なのか?
 
左の画面上に現れる分身たちと、右にいる熊川ふみとの会話は初めあたかも彼らが同じ位相にいるかのようであった。だから彼らははじめ会話をしているようにみえる。だが熊川の分身があらわれ、ーーーそれはおそらく行方不明になった母の娘なのだがーーー、そこにおいてはじめて会話はすれ違いを見せる。「どこに?」とそこにいる熊川は繰り返す。全く同じ調子で。冷たい、身体も凍り付くような調子で?機械のような調子で?熊川は「どこに?」と繰りかえし唱える。
 
だがそこにいる熊川は、いったい何なのだろうか。それは熊川が何を演じているのか=なんの分身であるのかということではない。問題はその身体の存在論的な位相である。画面上の人々はすでに過ぎ去ってしまった、いや死ということすら出来ない、もはや現実とは別の位相にある絶対的〈分身〉(丹生谷貴志)である。それと異なる位相にいて、まさにここにいるはずの熊川「こそが」、永遠に死ぬことのなく漂い続ける分身、情報として消え去ることも出来ない分身を演じている。この、一見逆転にもおもえる事態を、まったく理解することのできないままに、ただどうしようもなく、声を殺して私は泣いた。
 
熊川はいったいあのとき何だったのか。情報としての身体を演じること。まぎれもなくそこに血が通ったものとしてあるはずの身体が、血の通っていない身体の分身としてあることは、決して血の通っていない身体を人間化することではないだろう。だから、熊川の冷たい声の調子は、それが「人間が発しているという理由において」あくまで温かいのではないか、という問いは斥けられる。冷たい/温かいということはもはやどうでもいいのである。その二分法はあまりに人間的であるからだ。それがその調子である、ということが途方もない自由であるはずだ。
 
そこにあるのはあくまで身振りにほかならない。だが身振りを人間に回収してはならない。身振りはあくまで身体=物体の位相にあるのだ。だから、人間には血が通っている、ということがここで問題なのではない。物体にも血は通っているのだ。
 
だから、問うべきは、熊川にかぎらず、そこにある身体たちの動きがデジタルであるかどうかという問いではない。デジタルの果てにほの見える有機性などはここではいささかも問題ではない。ここで問題にあるのは、その動きをしている身体たちが、あくまでその動きにおいて肯定されるという途方もない自由であるはずだ。その身体たちは身体=物体の位相でただ肯定されるのである。ここにたしかに流れている血が、電子信号として、空気として、情報として、つまり「流れ」として肯定されること。血を流れへと解放すること、あまりに人間的なものから解放すること。
 
演劇は絶対的〈分身〉には、「本質的に」到達できない。仮に俳優が心不全で倒れてしまえば演劇は中断してしまうだろう。そこにある身体は絶対的〈分身〉ではなく、絶対的〈分身〉は画面のなかの身体たちである。だがそこにある身体たちはもっと別の位相を開示していた。演劇だけに可能な何か。物体としての身体。身振りを人間から解放し物体へと開くこと。血を人間から解放し流れへと開くこと。私に流れているのは電気信号と同じ、空気と同じ、情報と同じ、血であると。それはとてつもない自由であろう。人間からの。早晩消え去るにちがいない人間からの圧倒的な自由であろう。