cineぞこない日記

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20160124

このほとんど、

誰に向けても書かれていないような場において書くのは、

批評があくまで仕方なく

どうしようもない遅延によって為され、

恥を置き去りにすることで恥を恥として受けとめるということを

その都度確認するために他ならないのだが、

そんなことは誰もが知っている。

 

浴槽に始まり、河川に終わる一連のショットは、

とりあえず液体の停滞から流出という主題を緩やかにかたちづくっており、

それはおもに妻を不幸な事件によって亡くしたという男の周囲、

とりわけ男の皮膚の内側と外側を取り巻いている。

当然、液体は、その事件以来、

ビールとして下腹部に蓄積し続け、

溢れ出ることを知らずに皮膚の内側に淀んでおり、

どうやらその表情が保持しているらしい「内面」は、

液体の停滞という事実によってその重みが感知される。

 

むろん液体の停滞はその男の周囲のみにあるのではない。

若い男性パートナーと別れることになる弁護士の男もまた、

ギブスで固められた右脚への液体の侵入を、

透明の膜によって未然に防いでいたのではなかったか。

まさにそのとき、シャワーヘッドの欠落によって、

つまり液体の流出が妨げられることによって

彼らは別れることになったのではなかったか。

 

あるいは一方で、

節操もなく液体を流出させてしまう一人の女、

つまり皇太子妃の登場に感涙し、

生まれたての卵を踏みつけて割り、

夕陽を眺めながら用を足してしまう一人の女が存在している。

彼女が、壁に貼られた透明の膜ではなく、

儀式的に装着される保護膜こそが除去すべき皮膚であり、

その除去こそが「正しい」液体の流出なのだと悟るそのときに、

妻を失った男もまた、

ある若い男が液体を道端に放出し、

女がそれを微笑とともに受け入れる光景を目撃する。

そのことによって男は、「正しい」液体の流出とは、

手首からのそれではなく、

眼球からのそれであると悟るのである。

 

だが近年のクローネンバーグが、

初期の崇高や官能性を徹底して禁じ、

ほとんど失敗すれすれのラインで、

あくまで「原理的に」皮膚の相互浸透を試みている事実、

あるいは濱口竜介が一貫して、

クローネンバーグとは全く異なる大胆な繊細さで

「原理的に」皮膚の相互浸透の(不)可能性に接近してゆくという事実、

こうした事実に対して、

『恋人たち』が緩やかにかたちづくっている液体の停滞と流出は、

どこか違和感を残しながら

嫌な澱のように記憶に溜まっていく感覚がある。

それが何なのかは結局のところよくわからないが、

結局何もわからないという事態に行き着くことは、

誰もが当然のように知っているのである。