cineぞこない日記

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20160201

嗚呼サソリはやはりカエルを殺すのだという、

そうしたショットをおぞましいほど的確に捉えるのが

たとえばフライシャーであるということはできる。

それがほどほどに上手いのがスピルバーグであり、

上手くはないがなんとか試みようとしているのが

ニール・ブロムカンプであるということもいえるだろう。

 

だがサソリがカエルを殺さない方法はなかったのか?

サソリ(独身機械?)がカエル(独身機械?)を殺さないためには、

より大きな機械の作動を必要とする。

たとえばサソリとカエルを一呑みにする巨大魚。

あるいはサソリを捕まえる大鷲。

あるいは大地震。大洪水。天変地異。

いずれにせよサソリとカエルの関係性を根本から改変するような、

いわば宿命的な装置が必要となる。

そこに、宿命的であればあるほど

同時に奇跡となりうるような、

とてつもない事態が生じる。

そこにしか、救済の道はない。

サソリとカエル、どちらか一方をではなく、

その両方を救済する道はそこにしかない。

 

「世界の法則を回復」しようとした黒沢清が、

一貫して問題にしているのがその救済にほかならない。

だが、救済は果たして可能なのか?

可能であるならば、それはどのようにして為されるのか?

 

おそらく、それは、「受難」であろう。

より大きな機械の作動に受難すること。

少なくとも、いまは、それがもっとも適切な答えである。

だがそれは、あまりにも悲しい。

「革命」は、いかにして可能なのか。

身体が機械の作動に受難するのではなく、

機械の作動が身体に受難することは可能か。

 

それは「身振り」であるとジョルジョ・アガンベンは言う。

あるいはそれは「顔」であると、おそらく濱口竜介は言う。

ふと行きずりの男と電車に乗ってしまう桜子は

「革命」を遂行しているのだろうか?

サソリがサソリでなく、カエルがカエルでなくなる瞬間、

桜子が桜子でなくなる瞬間、

絶対的〈分身〉は揺らぎ、

救済は可能になるのかもしれない。

 

だが桜子が桜子でなくなるとはどういうことなのか?

むしろここでは、

桜子は桜子で「ある」のではなく、

桜子で「あった」ためしなど一度もなく、

つねに桜子に「なる」ほかはないという事実が、

ふいにあられもなく露呈してしまっていたのではないか。

 

したがって、むしろ考えるべきことは、

サソリが他ならぬサソリに「なり」ながら殺すことはなく、

カエルが他ならぬカエルに「なり」ながら殺されることのない、

そうした可能性についてではないのか。

そこに、救済があるのではなかったか。

だがそれは、どのようにして可能なのか?