20161023
アントナン・ペレジャトコ『7月14日の娘』
クリシェを煮詰めた先にある悪趣味に近い洗練された下品さを、
下品さそのものとして楽しむ下地がほとんど存在せず、
あろうことか上品さとして消費してしまいかねないこの国では、
それは案の定配給されることもなく幾度かスクリーンを掠めていったのだが、
そうした事態を嘆くことも、あるいはさほど気に留めずにやり過ごすことも、
どちらも同程度にもっともらしい行為であると言えると思う。
ペレジャトコの映画史への姿勢を真面目と形容するなら、
たちどころにタチやらゴダールやらリュック・ムレなどといった名前が、
例えば彷徨やヴァカンスの喪失、革命、労働の拒否などといった物語的な主題、
あるいは海辺や森林、一本道、草原、スクラップ場などといった風景とともに、
ずらずらと得意げに呼び起こされたりもするだろうが、
どうにも私にはそうした真面目さは格好の疑似餌にしか思われない。
彼はあくまで表象の次元でしか映画史に向き合っておらず、
むしろそうした限界内に留まることを自身の倫理的立場としているかのように思える。
革命が女の尻を追いかけるための口実でしかなかった偽医者のように、
すべてはヴィマラ・ポンスを映し出すための口実としか思えない。
そうした意味では、歴史に対して不誠実であると明確に示すことで
この映画は誠実たらんとしているのであり、それはむしろ卑怯と呼ぶこともできる。
と言いつつ、私はこの映画を批判したいわけではない。
どちらかといえば、嫌いではなく、人々の力ない笑いに私の声も控えめに紛れてゆく。
だが一方で、真似しないと豪語しておきながら小津やら、ヒッチコックやらを、
食虫植物のようにショットの次元で大胆に体内に取り込んで消化する、
『ダゲレオタイプの女』のような映画をいまだに撮り続けている男もいるのだから、
この倫理的な真面目さを措いて、真面目という形容を適用することに関しては、
私としては抵抗せざるをえない。