cineぞこない日記

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20180830

疎ましい過去のように堆積していくショットたち?ショットはもはやない、瓦礫もない、ゴミだけがある、そんなことはわかっている、出発の合図はいかにして鳴るのかもう忘れてしまった、2018年、ゴミとゴミの摩擦によって炎を発生させる開発、だらだら続く生、デジタル・ディスプレイ、おもちゃのプロジェクター、映写機はみんなおもちゃだ、workshopという語は20世紀に生まれたらしいが仕事を小売する場ということなのか、そこで売られているものは商品に値するのか、商品として成立させるために躍起になって、楽しんで盛りあがって、ゴミだけを組み合わせて成立するほどまだ21世紀は到来しちゃあいねえ、散りばめられた意味ありげのなかの明快な意味だけがいまだ市場価値たりうる、電車、海に瓶を投げて、見あげる、まだ生きてやがるムルナウ、成瀬、小津、まだそんなことで20世紀を引きずっている私たちの怒りはどこに向けられればよいのか、地下か?

20161023

アントナン・ペレジャトコ『7月14日の娘』

 

クリシェを煮詰めた先にある悪趣味に近い洗練された下品さを、

下品さそのものとして楽しむ下地がほとんど存在せず、

あろうことか上品さとして消費してしまいかねないこの国では、

それは案の定配給されることもなく幾度かスクリーンを掠めていったのだが、

そうした事態を嘆くことも、あるいはさほど気に留めずにやり過ごすことも、

どちらも同程度にもっともらしい行為であると言えると思う。

 

ペレジャトコの映画史への姿勢を真面目と形容するなら、

たちどころにタチやらゴダールやらリュック・ムレなどといった名前が、

例えば彷徨やヴァカンスの喪失、革命、労働の拒否などといった物語的な主題、

あるいは海辺や森林、一本道、草原、スクラップ場などといった風景とともに、

ずらずらと得意げに呼び起こされたりもするだろうが、

どうにも私にはそうした真面目さは格好の疑似餌にしか思われない。

 

彼はあくまで表象の次元でしか映画史に向き合っておらず、

むしろそうした限界内に留まることを自身の倫理的立場としているかのように思える。

革命が女の尻を追いかけるための口実でしかなかった偽医者のように、

すべてはヴィマラ・ポンスを映し出すための口実としか思えない。

そうした意味では、歴史に対して不誠実であると明確に示すことで

この映画は誠実たらんとしているのであり、それはむしろ卑怯と呼ぶこともできる。

 

と言いつつ、私はこの映画を批判したいわけではない。

どちらかといえば、嫌いではなく、人々の力ない笑いに私の声も控えめに紛れてゆく。

だが一方で、真似しないと豪語しておきながら小津やら、ヒッチコックやらを、

食虫植物のようにショットの次元で大胆に体内に取り込んで消化する、

『ダゲレオタイプの女』のような映画をいまだに撮り続けている男もいるのだから、

この倫理的な真面目さを措いて、真面目という形容を適用することに関しては、

私としては抵抗せざるをえない。

 

 

20161007

事情により奇妙な順番で、

新作を後追いすることになった。

新海誠が、本家スピルバーグよりも、

スピルバーグらしきものを強引に見せてきた。

他の要素はひとまずどうでもよい。

だがこれでいいのか。

 

涙腺を緩め、

かつ想像力の擁護に対しては

一定の距離を保たなければならない。

そのような要請を感じざるをえない。

路頭に迷ってしまった。

 

太陽の帝国』は応えてくれるか。

『最前線物語』は応えてくれるか。

『ハタリ!』は応えてくれるか。

『捜索者』は応えてくれるか。

どうすればよいのだ。

どうすればよいのだったか。

どうしようもないのだろうか。

 

 

20160426

 タルコフスキーはフィルム以外の素材では決して観ないことにしているという、もういい加減いい年齢になっているのにいつまでも子供じみた理由から何年も遠ざかっていたのではあるが、あたかもそんな主義などなかったかのようにさりげなさを装って机に積まれることになった『ノスタルジア』のブルーレイを、案の定一年近くも放ったらかしにしたのち、どうやらスクリーンにかけられるというので重い腰を上げてようやく封を解いたのだった。

 

 人を無用な饒舌へと誘ってやまない幾多の危うい誘惑的記号に溢れているこの映画を、端的に「ずるい」という形容詞に収斂させてみよう。するとたちまち、幾多の誘惑的記号は映画にとって実にどうでもよい些末な事柄となって消えていく。実際、ほとんど内容というほどの内容もない。誤解を恐れず、たいした映画ではないとすら言ってみたくもなる。映画にとっては、タルコフスキーよりもトビー・フーパーのほうがよほど誠実であり、真摯であると確実に言えるだろう。

 

 にもかかわらず、自分の感受性の単純さに驚愕している間もなく、気がつくとふいに視界が曇り、事態のあからさまな破廉恥さに対して平静を装うこともできない屈辱に耐えねばならないのは何故なのだろう。これは端的に「ずるい」からでなくて何だというのか。そしてこのずるさとともに、タルコフスキーは確実に胡散臭さを獲得している。そう、ついにタルコフスキーは胡散臭さを獲得したのだ。ブルーレイという素材のもつ白っちゃけた明るさとともに。霧が、寺院の壁が、そしてエウゲーニャの肌のテクスチャーまでもが、ついに胡散臭さを獲得し、あからさまにスクリーンにその姿を見せる。

 

 ブルーレイによって、タルコフスキーはついに胡散臭さを獲得し、「ずるい」という形容詞を帯びる固有名詞となりえたのだ。この事態を祝福しようではないか。ここにおいてはじめて、永遠に閉じ込められていた記憶の亡霊たちは、図らずも解放されたのではなかったか。ドメニコの死すらも、ついに胡散臭さを獲得した。だから彼は何度でも心おきなく死ねるだろう。あなたはようやく、生きても死んでもいない者となった。祝杯をあげよ。蝋燭は置かれていた。そう、蝋燭はすでに置かれていたのだ。まったくもって、「ずるい」というほかない。

 

20160408

 映画はジャック・ドワイヨンとともに退屈さを獲得したと書くとき、ここで言われているのは単なる肯定であって、否定ではない。元来退屈以外の何物でもなかった映画は、いつしか面白さという価値を内在的にもつものとして語られ始めた。人々は、白い映画や赤い映画、明るい映画や暗い映画(物語が幸福か否かということではない)を語るのと同じように、退屈な映画や面白い映画について語り始めたのだ。だが、白さや赤さは、映画が内在的に持つ要素によって策定されうるのに対して、退屈さや面白さは、映画が内在的に持つ要素によって策定されるものではない。
 退屈さや面白さは、きわめて曖昧な言説の領域にのみ、あやうくその輪郭を保っているのである。それがあたかも映画に内在する要素によって策定されるものとして語られるとき、退屈さと面白さは、同程度の罪でもって映画を殺すだろう。もし、映画を暗殺から擁護したければ、退屈さや面白さが、言説の領域にしか見いだせないということを、果敢にも示して見せる必要がある。ドワイヨンの実践は、退屈さは言説の領域における神話にすぎないということを、果敢な退屈さによって徹底的に示して見せる。だからこそ、ドワイヨンの映画は、誤解を恐れず言うなら、ほとんど面白さと紙一重の次元において、誇り高き退屈さを獲得しているのである。
 その誇り高き退屈さは、退屈さ/面白さというありふれた二項対立を突き崩し、退屈さと面白さの絶えず揺れ動く変容という次元をひらく。それによってドワイヨンは、驚くべきことだが、白い映画、赤い映画などというものこそ、存在しないのだということ————白さ、赤さとは映画が内在的に持つ要素によって策定されるものなどではいささかもなく、じつはそれこそが言説の領域の神話であるということ————を示してしまうのである。いまや、映画は、退屈でもあり面白くもある、単なる肯定をひたすらに生産し続ける、作動した機械に立ち戻るのである。

20160318

 寂しげにとぼとぼと歩いても孤独が浮き立つばかりで、その孤独はふと呆けたように夜のバス停留所をさまよう足下に、あるいは撮影現場から遠のいてゆくその足下にまとわりつき、ひいては家中に溢れだしてしまった水となって彼女の足首を濡らす。たとえ側を誰かが歩んでいたとしても、孤独は彼女の表情を強ばらせるばかりであって、その歩みはいささかも彼女を救いへと導きはしない。
 かといって、彼女がひとたび自動車に乗り込もうと、孤独はよりいっそう強く彼女をとらえ、いいようのない苦しみから彼女を救うことはない。それは緊張した息苦しい空間でしかありえず、壁に何度も激突させることでそこからの脱出がかろうじて想像される空間でしかない。
 ではいったいどうすればよかったのか。バイクに乗る。たしかに笑みはこぼれ、風はひとすじ通り抜ける。あるいは着席し、杯を交わす。突然憎めない男に変貌した大根役者が場を和ませる。もしくは踊る。それもいいかもしれない。だが何かが違う。そう、何かが。
 結局のところ、それははっきりとは示されない。不完全であるといえば言える。私はどちらかというとサービスを期待しすぎるので、この要求は不当かもしれない。だが最後に、書架、そして記憶の染みついた机と椅子が映されると、ああここに座ることで彼女は救われるのかもしれないと思うことができた。彼女にそこに座らせてあげたかったとも思う。おいそれとそこに座ることは許されないのかもしれない。しかし、それでも彼女はそこに座るはずだ。彼女がそこに座るのを、私はたしかに見ることになるはずだ。
 

20160201

嗚呼サソリはやはりカエルを殺すのだという、

そうしたショットをおぞましいほど的確に捉えるのが

たとえばフライシャーであるということはできる。

それがほどほどに上手いのがスピルバーグであり、

上手くはないがなんとか試みようとしているのが

ニール・ブロムカンプであるということもいえるだろう。

 

だがサソリがカエルを殺さない方法はなかったのか?

サソリ(独身機械?)がカエル(独身機械?)を殺さないためには、

より大きな機械の作動を必要とする。

たとえばサソリとカエルを一呑みにする巨大魚。

あるいはサソリを捕まえる大鷲。

あるいは大地震。大洪水。天変地異。

いずれにせよサソリとカエルの関係性を根本から改変するような、

いわば宿命的な装置が必要となる。

そこに、宿命的であればあるほど

同時に奇跡となりうるような、

とてつもない事態が生じる。

そこにしか、救済の道はない。

サソリとカエル、どちらか一方をではなく、

その両方を救済する道はそこにしかない。

 

「世界の法則を回復」しようとした黒沢清が、

一貫して問題にしているのがその救済にほかならない。

だが、救済は果たして可能なのか?

可能であるならば、それはどのようにして為されるのか?

 

おそらく、それは、「受難」であろう。

より大きな機械の作動に受難すること。

少なくとも、いまは、それがもっとも適切な答えである。

だがそれは、あまりにも悲しい。

「革命」は、いかにして可能なのか。

身体が機械の作動に受難するのではなく、

機械の作動が身体に受難することは可能か。

 

それは「身振り」であるとジョルジョ・アガンベンは言う。

あるいはそれは「顔」であると、おそらく濱口竜介は言う。

ふと行きずりの男と電車に乗ってしまう桜子は

「革命」を遂行しているのだろうか?

サソリがサソリでなく、カエルがカエルでなくなる瞬間、

桜子が桜子でなくなる瞬間、

絶対的〈分身〉は揺らぎ、

救済は可能になるのかもしれない。

 

だが桜子が桜子でなくなるとはどういうことなのか?

むしろここでは、

桜子は桜子で「ある」のではなく、

桜子で「あった」ためしなど一度もなく、

つねに桜子に「なる」ほかはないという事実が、

ふいにあられもなく露呈してしまっていたのではないか。

 

したがって、むしろ考えるべきことは、

サソリが他ならぬサソリに「なり」ながら殺すことはなく、

カエルが他ならぬカエルに「なり」ながら殺されることのない、

そうした可能性についてではないのか。

そこに、救済があるのではなかったか。

だがそれは、どのようにして可能なのか?

 

20160129

つかの間の休みに、

溜めていたdvdやブルーレイを思う存分観ているが、

結局トビー・フーパーリチャード・フライシャーばかり観てしまう。

ばかり、といいつつ

ほとんどソフト化しているすべてを見直す勢いになっているが。

フーパーをみれば泣き、

フライシャーをみれば鳥肌をたてている。

どうしてあんな事が可能なのか。本当に恐ろしい。

 

 

20160127

とても映画になりそうもない貧しい主題を、

猛烈に説明しつくすことで無理矢理ノセていき、

まさかこんなことで興奮する筈はないと余裕で構えた観客に、

細かいジャブのような不意打ちを食らわせつづけ、

ついにはほとんど観客を納得させてしまうのがゼメキスのやり口なのだが、

もうほとんどふざけているとしか思えないような、

それが起きなくても一向に構わないような些末な出来事を、

いかにそれが素晴らしいことかという説明でこれでもかと飾り立て、

器用であればあるほど笑ってしまうようなサスペンスで彩ってみせるので、

ひょっとするとこの男はとんでもないニヒリストなのではないか、

などと勘ぐってしまうのも無理もないことであるのだが、

一番厄介なのはこれがなぜか面白いということであって、

こんなものが面白くあってはならないなどという常識は小気味よく粉砕され、

ああヒッチコックの毒を抜いて器用に吸収できたのは

デ・パルマでもシャブロルでもなく案外この男なのではないか、

などと『ザ・ウォーク』をみてあらぬ事を口走ってみたりもして。

 

 

 

20160124

このほとんど、

誰に向けても書かれていないような場において書くのは、

批評があくまで仕方なく

どうしようもない遅延によって為され、

恥を置き去りにすることで恥を恥として受けとめるということを

その都度確認するために他ならないのだが、

そんなことは誰もが知っている。

 

浴槽に始まり、河川に終わる一連のショットは、

とりあえず液体の停滞から流出という主題を緩やかにかたちづくっており、

それはおもに妻を不幸な事件によって亡くしたという男の周囲、

とりわけ男の皮膚の内側と外側を取り巻いている。

当然、液体は、その事件以来、

ビールとして下腹部に蓄積し続け、

溢れ出ることを知らずに皮膚の内側に淀んでおり、

どうやらその表情が保持しているらしい「内面」は、

液体の停滞という事実によってその重みが感知される。

 

むろん液体の停滞はその男の周囲のみにあるのではない。

若い男性パートナーと別れることになる弁護士の男もまた、

ギブスで固められた右脚への液体の侵入を、

透明の膜によって未然に防いでいたのではなかったか。

まさにそのとき、シャワーヘッドの欠落によって、

つまり液体の流出が妨げられることによって

彼らは別れることになったのではなかったか。

 

あるいは一方で、

節操もなく液体を流出させてしまう一人の女、

つまり皇太子妃の登場に感涙し、

生まれたての卵を踏みつけて割り、

夕陽を眺めながら用を足してしまう一人の女が存在している。

彼女が、壁に貼られた透明の膜ではなく、

儀式的に装着される保護膜こそが除去すべき皮膚であり、

その除去こそが「正しい」液体の流出なのだと悟るそのときに、

妻を失った男もまた、

ある若い男が液体を道端に放出し、

女がそれを微笑とともに受け入れる光景を目撃する。

そのことによって男は、「正しい」液体の流出とは、

手首からのそれではなく、

眼球からのそれであると悟るのである。

 

だが近年のクローネンバーグが、

初期の崇高や官能性を徹底して禁じ、

ほとんど失敗すれすれのラインで、

あくまで「原理的に」皮膚の相互浸透を試みている事実、

あるいは濱口竜介が一貫して、

クローネンバーグとは全く異なる大胆な繊細さで

「原理的に」皮膚の相互浸透の(不)可能性に接近してゆくという事実、

こうした事実に対して、

『恋人たち』が緩やかにかたちづくっている液体の停滞と流出は、

どこか違和感を残しながら

嫌な澱のように記憶に溜まっていく感覚がある。

それが何なのかは結局のところよくわからないが、

結局何もわからないという事態に行き着くことは、

誰もが当然のように知っているのである。

 

20160117

百姓娘の子守唄を聴いておぼえる市、

忘れられないショットだが、

すばらしい曇天のロケだなと思っていると

案外セットだったりするから恐ろしい。

森も霧も。

ふと瓦屋根の街の隣に森があったりする。

高千穂ひづるが、あえて足音を立てて入っていくが、

その前にそっと部屋に入ろうとしたときに、

勝新が気づかないという所に泣ける。

足音を立てなくとも、敵ならば市は気づくはずだから。

遊女に赤ん坊を預ける所とか、ああいうのにも私は弱い。

座頭市血笑旅』。

 

『鼠小僧次郎吉』、

林与一の一人二役が髪型でしか見分けつかないので

はじめヤバい映画かと思った。

林与一の唇の白さばかりに目がいってしまう。

どうも少女に肩入れしてしまうので

藤村志保が行燈の火をふっと消すところとか、

そういうところで妙に涙腺が緩む。

 

別に見なくてもいいかと思ったが

『クリムゾン・ピーク』をみてしまった。

これに喜ぶ人間と、なんとも思わない人間と、

喜ぶに喜べない人間がいるとおもう。

トム・ヒドルストンが、ある場所を刺されるときに

爆笑している観客がいて、好感をもった。

トム・ヒドルストンを嫌いという意味ではない。

 

20160110b

…よそう、そんな固有名詞を呟くのは。

 

酸欠の吐き気はおさまらず、

『マイ・ファニー・レディ』を見てもいっこうに良くならない。

もちろんそれは『忠次旅日記』で受けた呪いなのだから良くなるはずもない。

いやなにも『マイ・ファニー・レディ』が悪いわけではない。

ただ過去の失われた無数の物を思って疲労していた折りに、

「普通の映画」たるべく撮られ、それが叶わぬ願いと知りつつも、

やはり「良質の映画」として観客を集めなければならないということ、

「普通の映画」はもはや成立しないという状態が、

もう20年以上も続いており、

それを嘆く権利すらない世代に自分が属していることに、

重ねがさね疲労をおぼえる。

いや、それはうまく説明されすぎているので、

実際はたんに体調が悪かっただけなのだろう。

総じて表情は良いし、笑ったし、

最後のあの人登場にも場内ただ一人大笑いしたが、

それでもなにか切なく、

そっとホークスをプレイヤーのトレイに載せてしまいそうになる。

 

と、ここで何年かぶりに、

というかふと読みたくなって注文しておいた『映像のカリスマ』の、

主要登場人物の頁を読んで大笑いし、

俄然体調を取り戻した。

 

とはいうものの、いままさに書き上がろうとしている論文を、

破り棄ててしまいたい衝動に駆られ、

といってもそれはデータなのだから破ることはできないわけだが、

ともあれ、それを押しとどめようとして結果として

体調を崩しているとしか思えない。

もはや私個人の意志や欲望とはかけ離れたものになり、

かといってまぎれもなくそれによって私という

個人の意志や欲望が図られることにもなるがゆえに

そう私個人からかけ離れたともいえないその論文と、

いったいどう向き合えばよいのかまったくわからない。

いっそ私にとっても、社会にとっても、

まったく影響を与えないものになってくれたらと願う。

そうなればどんなによいか知れない。

どれほどのことが達成されようと、

何を書こうと、それは同じことだろうと思う。

 

と、思うもやはり書きあがればまずは

ゴダールを見ようそしてこの吐き気を、

いっそ吐くかもしれないしまさか食欲がわくとも思えないが

ともかく『パッション』あたりがいいのではないか、

そしてずぶずぶと呪いの只中に入っていって、

まあこう書いている時点で一種の予防接種なのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20160110

酸欠になり、死ぬかと思ったが、

それは余りに多くの物が失われてしまったことへの

喪ということにしよう。

失われずに残っているという事態に、

何度でも悦びうろたえよう。

伝次郎。沢蘭子。

伏見直江

伊藤大輔。唐沢弘光。

20160107

論文を出してから来ようと思っていたが、

やはりやっていると見てしまう。

『四谷怪談』。

逆さの反射像から入る、まずこれがいいし、

湖面の暗さもいい、泥濘もいいし、書き割りの不穏な空もいい。

強いのに愚鈍じみた、もういい年の長谷川一夫の傀儡ぶり、

この人は操られ、疲弊し、身体を持てあますほどいい。

当然、中川信夫版もみるだろう、とのばしかけた手を制す。

来週まで持ち越し。